戦国の覇者とは、「プロパガンダ」のチャンピオンである
ビジネスマンもヒントにできる戦国武将の策略
■「上杉謙信」というブランディング
次は、戦国最強と名高い武田信玄の例です。信玄は、小国の甲斐を父から継ぎ、隣国の信濃を併呑しました。なお、甲斐を父から継いだと言っても、それは父を追放するクーデターを成功させてのことです。
信濃は甲斐よりも大きいのですが、信玄以前はまとめる大名がおらず、多くの土豪が割拠していました。信玄は時間をかけて丁寧にそれらの土豪を、時には調略し、時にだまし討ち、そして最後まで逆らう者は合戦で叩きのめしていきました。
ちなみに、その過程で信玄は、村上義清という土豪に2度も負けています。しかし、負けてもすぐに態勢を立て直し、義清の味方を片っ端から買収していって、最後は孤立無援に追い込んで義清の領土をすべて奪いました。
信玄は、典型的な戦国大名です。すなわち、自分の国が生き残るために隣国を間接・直接侵略して領土を増やすことだけを考えていました。晩年だけは上京して天下に号令をかけたかったようですが、人生の大半は天下取りなど考えてもいませんでした。
ところで、信玄と言えば、忘れてはいけないのが越後(新潟県)の上杉謙信。言わずと知れた、勝率十割の「軍神」です。ならば、「戦は弓矢で行うもの」とする謙信にプロパガンダは無縁だったのでしょうか? とんでもない。
武田信玄がなぜ戦国最強と言われるのか? それは、「たった2倍」の兵力しかいないのに、あの「軍神」上杉謙信と引き分けることができたからです。
つまり、信玄は最強、謙信は「別枠」なのです。
ちなみに、江戸時代の評判では、「3位に徳川」とちゃっかり入っていたりします。
「軍神」謙信は、上洛するとの噂が流れただけで京都周辺を勢力圏にしていた三好・松永から貢ぎ物が殺到するほど、謙信ブランドを確立していました。ここまでくると、「上杉謙信」という名前自体が、一つのキャッチコピー、パワーワードなのです。現に武田信玄、あるいは北条氏康に滅ぼされた多くの大名・武将が、最後は謙信にすがりました。滅ぼされてもなお、謙信ブランドを頼れば、仇敵を恐怖のどん底に陥れることができる。謙信、恐るべしです。
永禄4(1561)年、謙信は氏康を小田原城に囲みます。氏康は、ひたすら城にこもり、謙信が帰るのを待ちます。そして盟友の武田信玄に謙信の本領・越後を攻める構えを見せてもらうよう要請します。これにはさすがの謙信も引き上げざるを得ませんでした。では、謙信は負けたのか。
謙信は小田原城の囲みを解いた後、小田原城の目の前の鎌倉・鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行います。鎌倉は源頼朝以来の武士の聖地、関東管領は関東地方の正式な支配者の地位です。
その様子を、氏康は指をくわえて見ているしかありません。これが当時の人にどう映るかは自明でしょう。氏康の時間切れ引き分けの画策に対して謙信は、デモンストレーションの宣伝力つまりプロパガンダで勝利を宣言したのです。
ちなみに、調略嫌いの謙信も、織田信長との戦いでは、それを使っています。能登(石川県)の七尾城は上杉・織田の中間地点で、城主の畠山家では、どちらにつくかで家臣団が割れていました。そこへ謙信は、「上杉につかねば踏みつぶすぞ」と書状を送り、上杉派が決起して織田派を駆逐しました。謙信、よほど信長と戦いたかったようですが、現実主義者の信長は援軍に来ませんでした。